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★『一命』 三池崇史監督記者会見

『一命』三池崇史監督記者会見
〜命を懸けて訴える“人間”としての正義〜

(2011年 日本 2時間6分)
監督:三池崇史
出演:市川海老蔵、瑛太、満島ひかり、役所広司

2011年10月15日から、丸の内ピカデリー、大阪ステーションシティシネマ、梅田ブルク7、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、TOHOシネマズ二条、神戸国際松竹、109シネマズHAT神戸ほか全国一斉ロードショー
・作品紹介⇒ こちら
・公式サイト⇒
  http://www.ichimei.jp/
(C) 2011映画「一命」製作委員会
 江戸時代初頭、御家取潰しが相次ぎ、生活に困窮した浪人たちの間では、裕福な大名屋敷に押しかけ、庭先で切腹させてほしいと申し出て、屋敷側から金銭の情けを得ようとする「狂言切腹」が流行した。井伊家を訪ね、切腹を願い出た初老の浪人、津雲半四郎もそんな一人に見えた。しかし、井伊家の家老、家臣たちを前に、彼の口から語られだしたのは、貧困に苦しみ、家族を愛する若き浪人侍の切腹狂言のあまりにむごい最期だった。建前を重んじるばかりに、他人の心情を推し量ることを忘れてしまった武家社会の非情な仕打ちに、半四郎は命を懸けて己の正義を訴える…。
 滝口康彦の時代小説「異聞浪人記」は、1962年に監督小林正樹、主演仲代達矢で映画化され、モノクロ映画『切腹』は映画史に残る傑作となる。今回、最新の3D技術を使って、色鮮やかに新たに再映画化。メガホンをとった三池崇史監督がキャンペーンで来阪され、本作の魅力、映画づくりについて語ってくれた。
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―――『切腹』はかなり観られたのですか?
DVDで観て、すごいと思いました。心からすごいと思うことができた瞬間、その映画は競う相手でも敵でもなくなり、包み込んでくれる存在になります。それは『十三人の刺客』をやった時に初めて感じることができました。『切腹』の小林監督が試写室に降りてきて、3D眼鏡をかけ映画を観て「ほぉ。まあ、いいんじゃないか」と言ってくれればいい。「なんてことしやがったんだ!」と思われたら、映画をつくる意味がありませんよね(笑)。
 
今のお客さんに受けるようにラブストーリーを付け加えたり、感情移入しやすいように夫婦愛を一般家庭のように膨らませた箇所を、脚本家との打ち合わせで、どんどんそぎ落としていったら、ほぼ原作どおりになっていました。原作のままで何が悪いのか、映画界の力も違うわけだし、オリジナリティは意識していません。というか、撮るのに精一杯で、寝ないでやるのかと我を忘れていました。余裕があれば、「自分がやるので」と、映画にとって余計なことを考えてしまう。夢中になって編集してつないでみると、確かに僕が撮ったのと原作と似てるなと思い、そういう意味ではすごく楽しい現場でした。
―――3Dの時代劇ということで、こうなればいいなと思っていたことがあれば?
おじいちゃん、おばあちゃんが、時代劇だからと観に来て、3D眼鏡を渡され「なんじゃこりゃ?」と思いながらも観終わって、「3Dもええなあ」と思ってもらうことができたら(笑)。3Dということで、最初は、いかにはらわたを飛び出させるかとか、センセーショナルな作品になるはずだったんです(笑)。でも、それがどんどんそぎ落とされていきました。


―――3D映画については?
映画は、そのうちほぼ皆3Dになると思います。昔に比べれば、デジタルカメラも、フィルムのような質感が出せるようになり、てらてらした映像もなくなりました。2Dで観るより、登場人物が立体的になり、庭一つとってみても奥行きをもって感じられ、より自然にみえます。

音響効果をみても、自然さを求める中で、モノラルがステレオになり、ドルビーに、サラウンドへと変化してきました。カメラは技術開発が大変で、今までできなかったから、やっていなかっただけ。もともと現実は3Dの世界なわけで、映画は2Dが本物で3Dは偽物と言う人もいるようですが、別に偽物でもなんでもなく、新しい道具にすぎません。選択する自由はあって、『トランスフォーマー』は3Dで観たほうが確実におもしろい。もともと2Dの頃から照明でコントラストをつくって、一生懸命やっているわけで、3Dになったら違うというのはおかしいでしょう。3D映画は機会があればまたやりたいと思います。
ただ、2Dだけが出せる力も確実にあると思います。ロバート・キャパの写真がすごいのは、キャパが生きた時代がすごいからで、カラーのフィルムがなく、あこがれて撮ったもの。その奇跡がキャパの写真をつくっている。モノクロ写真には勝てないし、今はもうあんな写真は撮れません。3Dがもっと普通になった時、初めて2Dのよさがわかるのではないでしょうか。

―――『忍たま乱太郎』(2011)に続く監督作品で、ジャンルを問わず何でもされるというイメージがありますが、監督ご自身の中で切り替えとかされるのですか?
切り替えは必要ないし、違和感もありません。逆に他の監督がよくあんなに似たようなものばかりつくれるのかと、すごいなと思います。自分のつくりたい映画について明確なビジョンがあると、かえってそれに縛られて、何かを捨てているようにも思えます。


僕からしたら、『一命』も『忍たま乱太郎』も皆同じなんです。愛されて苦労して生まれた原作があって、原作者は、本当に魂を、命をかけてつくっている。何を表現したいかというと、どんなものも、生きることの喜びと悲しみを撮るものでしかありません。それがたまたまギャグ漫画であるか、時代小説であるかだけの違いで、その違いはものすごく薄い。薄い皮を一枚はぐと、そこに変えようのないものが存在していて、根っこは同じに感じます。

原作者へのリスペクトがあれば何でもできるし、自分がおもしろいと思わない小説でも大丈夫。最後まで書くだけで、やり続けるだけで、僕はすごいと思うからです。違うなと思う作品でも、自分はなぜここをおもしろくないと思うのか考え、何度も読んでいけばそこに答えが見えてくる。伏せてしまうよりも、そこに書いてあって自分が読めるものを映像化していけば、否定するものはほぼなくなってしまう。実際それでやってみると、原作とほぼ変わりません。
―――主役の浪人半四郎を演じた市川海老蔵さんの海外での反応は?
日本の役者らしい役者にみられたと思います。僕も、彼には時代劇の中でやるべき役があるし、ラブトーリーをやろうとは思わないです。
―――監督としては、海老蔵さんをどう生かそうとされましたか?
半四郎としてどう生かせるのか、最初のうち、探りあいはありました。幸運にも、撮影初日が、子どもと一緒に鯉を釣るシーンで、子ども相手に芝居できませんから。続いて、冒頭の名乗りをあげる場面になり、こちらも、こんなふうにしてこうなるという計算があってやっているわけではなく、イメージはあるのですが、あまりそれを強く持ち過ぎて、事前に話合いで形をつけるのはあまり好きではありません。自分がこれまで嫌だなと思っていたことが、現場でやってみると、かっこよかったりする。知らないことを捨ててしまうような気がして、事前に俳優やスタッフともあまり話しません。現場でやってみてそこから生まれるものを大切にしたい。

たとえば、「優しく笑う」と台本にあっても、「笑う気持ちにならなければ笑わなくてもいいよ、でも笑うとしたら、こういうことなんだろうな」と役者と現場で話しているうちに、「そういうことなら、こういう笑いだったらできますね」というふうに、役者に脚本を体験してもらう。
失敗のリスクはありますが、そもそも答えの出ないものだから、あらかじめ答えありきで現場に臨まないようにしています。同じ侍といっても、いろいろな生き方をしなきゃいけない。息をあわせてというよりも、バラバラでもいいから、自分の思うような芝居を、その役者の個性を生かしていければと思いました。

海老蔵さんも、今回、歌舞伎と違って、ナチュラルで抑えめに芝居をするのを楽しんでいて、他の役者さんの芝居をすごく観察してどんどん吸収していました。彼のにらむ目が形になりすぎていると、僕も「歌舞伎じゃないのでよろしく」と言い、彼も「了解」と手をあげてくれる、そんな関係でした(笑)。 
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 「映画の撮影が終わった時には、俳優たちに幸せになってほしいと思うんです」と語る三池監督。「刹那的な美しさを発揮する仕事なので、なくなってしまうのではないかというはかなさがあります。だから美しいという気がするし、何かを願ってしまう。ファンの方々もそういうことで支えるし、そういう思いが、より役者たちを輝かせています」。
 原作にも、役者に対しても、先入観や固定観念にとらわれることなく、開かれた意識を心がけている姿勢ゆえに、きっと撮影現場では、臨機応変に、柔軟に対応していかれるのだろうなと思った。中学時代はラグビー少年で、レーサーを目指したこともあったという監督。抜群の運動神経のよさとセンスのよさ、謙虚さと情熱とが、多岐にわたる作品群をどれも魅力いっぱいに仕上げている秘密かもしれない。

 その一方で、現在の映画を取り巻く環境について「50年前の日本映画は、脚本家の才能、映画の魅力とおもしろく、役者たちも生き生きしています。日本映画が培ってきたものがずっと継承されて、今我々がいるのではなく、どこかで断ち切られているような気がします」、「かつては、一人ひとり個性があって、なにゆえ映画を観るのか、その目的は皆、全く違っていて、人と俺は違うんだということを確認するために映画を観に行っていました。俺はこの映画のこのシーンが好きとか、一緒に観にいった者同士で違ったりするのが当たり前でした。
 でも、今は、皆が知っている内容を、皆知っている程度におもしろく、皆が同じ意見を持って、安心して劇場を出て行く。ちょうどおもちゃでいうと、ブリキのおもちゃがなくなってしまった感じ。ブリキだと、ねじを巻いているそばから、角で手を切ったりして危ない。今は、プラスチックのおもちゃばかりで、安全で、飲み込むこともない。どちらがおもしろいかといえば、ブリキのほう」と、手厳しくも、的を得たコメントも。子どもの頃から諦めがすごくよい子だったという監督、現代という時代にレベルをあわせることなく、懐にガツンとくるようなパンチのある作品を、これからもどんどんつくっていってほしいと思う。
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