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★『アトムの足音が聞こえる』公開記念 大野松雄音響伝説トークライブレポート

(C) シネグリーオ2010
『アトムの足音が聞こえる』トークライブ
ゲスト:大野松雄
(2010年 日本 1時間22分)
監督:冨永昌敬
出演:大野松雄、柴崎憲治他

2011年7月2日(土)〜第七芸術劇場、7月23日(土)〜神戸アートビレッジセンター、今夏〜京都シネマ
公式サイト⇒ http://www.atom-ashioto.jp/
 日本アニメを世界に知らしめた『鉄腕アトム』。そのアトムがどんな足音をしていたか、覚えているだろうか?その足音は、宇宙の子にふさわしく、どこにもないピリピリとした全くの新しい足音がしたのだ。その足音の生みの親であり、ある日突然第一線から姿を消した伝説の音響デザイナーの仕事や彼の姿に迫った『アトムの足音が聞こえる』が劇場公開される。『乱暴と待機』の冨永昌敬監督が手がけた初のドキュメンタリーでは、当時の映像やかつての弟子の証言を交えながら、大野氏の卓越したセンスとその仕事ぶり、そして滋賀の知的障害者施設で彼らの演劇活動を支援し、新たな創作活動を続ける様子が描かれる。

 映画の中で、「プロとはいつでもアマチュアになれること」と語った大野氏。音楽評論家の吉本秀純氏とのトークライブでは当時のエピソードから実験が許された時代の大野氏の生き方が滲み出る非常に興味深い内容が語られた。

吉本:大野さんは、鉄腕アトムの音を作った知る人ぞ知る存在ですが、アトムの音を作った当時まわりはどんな反応だったのでしょうか。
大野:鉄腕アトムというテレビアニメは本当はほかの人たちがやるはずでした。パイロット作品でクライアントからキャンセルされてしまい、文学座時代の先輩で後にフジテレビ映画部副部長になった竹内さんが「一人いるけれどえらくうるさいやつだぞ。」と付き合わされたんです。アトムは嫌いじゃないし、SFは好きで小学校のときから天文少年だったので嫌いじゃなかったけれど、やるとは思っていませんでした。

1月1日から放映で頼まれたのが一週間前。引き受けたからにはやらないわけにはいかないので、最初の1話、2話だけはやろうと。そのときお願いしたのが、音響効果ではなく音響構成にしてもらうこと、そしてもう一人共同プランナーをつけてもらうことでした。もしかしたら手塚さんともめてやめるかもしれないと思ったんです。12月30日の夜に最終的な録音をやることになりましたが、手塚さんにうじゃうじゃ言われて「辞めた。」といって帰りました。すると今度はクライアントが「あの人にやってもらえ。」と言ってきたのです。

■アメリカで売れるようなサウンドを作ろう。
そこで、絶対に飲まないだろうという条件を出しました。それは、「この作品はアメリカで売れると思うから、アメリカで売れるのを作ったらギャラを考えてもらおう。」ということでした。それまで日本ではアニメのことを「テレビまんが」と呼んでいました。子供向けの番組、つまり全部そろっているけれど何もない「お子さまランチ」なのです。アメリカのアニメーションは音楽に合わせて絵を描いているけれど、日本は絵が先で音楽はそれに合わせなければいけない。フルアニメは24コマだけど、最初は絵がたりなくて、1秒間で10コマのリミットアニメだったので音でごまかさなければいけない。やるんだったら、アメリカで売れるようなサウンドを作ってやろうじゃないかと。そこで、電子音響と、録音して加工して全く別のものに作り替えるミュージックコンプレーションを使いました。

■鉄腕アトムはある種の実験、世の中も実験を許してくれる許容度があった。
大人どもはこんな難しいものは子供には分からないと言ったのですが、ぼくは子供だから分かると。そうしたら子供にうけちゃって、だからやってるんです。電子音楽は難しそうに作っていると思われるけれど、もっといいかげんなものです。ある程度遊びながら作れたというか、まじめに遊んだというか、ゆとりがあったということですね。鉄腕アトムもある種の実験なんです。世の中もそういう実験を許してくれる許容度があった時代です。効率化も追求されなかったし、管理システムもなかった。どれもこれも手探りで何でもありの時代だった。昔のルイ14世みたいなもので、「俺がいいというからいいんだ。」、手塚さんにも「素人は黙ってろ。」と言ってしまったんですよ。


■今のテレビはすべて管理されていて、権力に逆らわない。
アトムが終わってからテレビのものを一切やっていないから消えちゃって死んだように思われていますが。大体4年ぐらいたつと管理システムができたり効率化を求められたり、こちらもビジネスでやらなければならなくなります。遊びを許されないとなるとバカバカしくなってやめました。今の人はテレビが一番みたいに思っているけれど、ぼくはあんなに面倒臭いものはやりたくないです。テレビも実験や遊びができればおもしろいメディアですが、今のテレビというのはすべて管理されていて、権力には逆らわない。ましてや私は神田生まれで江戸っ子の端くれなので、権力が嫌いなんです。だから上から言われると「うるさい!」となるんですよ。

吉本:率直な本作への感想はいかがですか。
■対象が思い通りにならなかったら、それをどうするかがドキュメンタリーのやり方。
大野:そこそこ出来ているんじゃないかと思いますが。冨永さん(監督)は劇映画をやっていた人なので、全部自分で仕切りたがるのです。全部筋立てを作っていかないとやりにくい。でもドキュメンタリーは想定外なことばかりで、それをどう想定していくかということをやっていかないとドキュメンタリーは撮れません。対象が思い通りにならなかったら、それをどうするかがドキュメンタリーのやり方です。

本作を引き受けるにあたって、僕がものを作っているところは絶対に撮らないでくれと条件を出しました。ドキュメンタリーを作る人には致命的でしょう。なぜそれを言ったかというと、ぼくが作るときは何もしてないんですよ。テレビをぼやっとみたり。考えてないけど考えているというやりとりの中でまとまりかけてくると、そこで一気にやるんです。そのときだけは集中するので、撮影カメラのように余計なものが来たら困るんですよ。また、そういったら(監督は)どう攻めてくるかなという考えもありました。

吉本:知的障害者の施設でずっと音響を手伝って交流しているシーンが印象的でしたが、その中で一番おもしろいと感じることは?
■本気ですると本気で返してくれるキャッチボールが運のつき。
大野:60年代終わりに知的障害者施設あざみ寮の記録映画を撮って音響をしたのですが、キャメラマンが70年の万博ロケで2年間海外に行くことになって、私があざみ寮を撮らざるを得なくなったんです。そこの寮生さんは、こちらがよそよそしくしなければ、向こうも構えずにつきあってくれるのが面白くて。そのうち認可施設になって、もみじ寮ができ、男子も入居できるようになってから演劇をするようになりました。

彼らの反応の的確さにびっくりしましたよ。劇の音楽も、プロじゃなきゃできないようなものを作ると向こうもきちんと返してくる。そのキャッチボールが運のつきで、それ以来演劇の前に半月ほど向こうにいくと、みんな劇をするというスイッチが入るんです。

今大阪の劇団の連中が現場に入って一緒に稽古をしていますが、一緒に芝居をするのが楽しいから来てくれているのです。こちらが福祉ではなく、本気ですると本気で返してくれます。プロがアマチュアを助けている感じですね。僕自身の中では、(鉄腕アトムの音制作、音楽制作、知的障害者施設でのサポート)すべてのことをやっているときは同質なのです。
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 今まで撮る側だったのに、自分が撮られる側になって、どうして自分がと最初は驚いたという大野さん。様々な武勇伝を残しながら、80歳になった今でも反骨精神を失わず新しいチャレンジを試みる元気な姿に、来場者からも拍手が沸き起こった。伝説の音と音響デザイナーをひもとくドキュメンタリー、プロの仕事人の華々しい功績とその後の生きざまは、驚きと発見に満ちている。

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