topへ
記者会見(過去)
旧作映画紹介
シネルフレバックナンバー プレゼント
『テレビに挑戦した男・牛山純一』
  作品紹介
新作映画
テレビに挑戦した男・牛山純一
『テレビに挑戦した男・牛山純一』
〜地平を切り開いた男、その創作に学ぶ〜

(2011年、日本、映画美学校、1時間22分)
監督:畠山容平

2012年6月30日(土)〜7月6日(金)大阪シアターセブンにて公開
★トークイベントを開催します!
 大島渚監督フリークとして、牛山純一プロデューサーの名前は何度か耳にした。第2次世界大戦を題材にしたドキュメンタリー作品「大東亜戦争」(1968年放送)はとりわけ強烈だった。映像はニュースフィルムだが「当時の日本人の体験としての大東亜戦争の記録である」というテロップが入り、威勢のいい当時の新聞の見出しや「大本営発表」のニュース映画を使っている。国をあげて戦争に邁進していた時代、いかに新聞やニュース映画が国民を欺き、扇動したかを伝える内容に衝撃を受けた。このドキュメンタリーの仕掛人が牛山純一プロデューサーだった。
 もうひとつ、忘れられないのが今村昌平監督のドキュメンタリー映画「人間蒸発」への大島監督の批判。映画は各方面に話題を呼んだが、大島監督は映画雑誌で「テレビより5年遅れたドキュメンタリー」と切って捨てた。当時は知らなかったが、この発言の裏には牛山さんの仕事があったはずだ。
 牛山さんの名前はテレビ、とりわけドキュメンタリーの世界で知らない人はいない。早大から53年、日本テレビに一期生として入社したことがすでに“先見の明”の証明だった。政治記者を手始めに、報道番組ディレクターとして名を上げた。62年に日本テレビでスタートした「ノンフィクション劇場」でドキュメンタリーの方法論を築いた後は知られる通りだ。
 映画は牛山さんの足跡をたどり、テレビマン、ドキュメンタリストとしてどれほど大きな存在だったかを検証していく。映画監督・佐藤真の発案でスタートし、佐藤監督急逝後はゼミの学生たちが後を受けた、という。
 テレビの特性をよく知った人だった。“中継の牛山”の異名を取ったのは「皇太子(現天皇)ご成婚パレード」(59年)から。他局が皇太子と美智子妃のメモリアルフィルムを流している時に、日テレ牛山さんは沿道にズラリと中継台を設置、カメラを並べ、生中継で「まだ来ません。もうすぐ来ます」とアナウンスしながら、沿道を延々と映して他局を圧倒した。テレビの威力は生中継、これ以上の強みはない、と知り尽くした上での英断だった。
 1962年から始まった「ノンフィクション劇場」は記念碑、ドキュメンタリーの原点になった。大島渚監督が韓国籍の傷痍(い)軍人をとり上げた問題作「忘れられた皇軍」は最後「日本人よ、これでいいのだろうか」という呼び掛けで結び、これに衝撃を受けたことが「製作の動機になった」と畠山監督も語っている。
 「闘うテレビマン」としてもちろん挫折もあった。1965年、戦争のまっただ中に放送した「ベトナム海兵大隊戦記」は米兵が捕虜をカメラの前で惨殺し、生首をぶら下げて歩くなど、戦争の残虐さを伝えたことが「反米的」とされ、官房長官から電話が入り、第二部以降は放送中止になった。中止を聞いた牛山さんは泣き崩れた、という。
 翌1966年から「すばらしい世界旅行」を制作、非ヨーロッパ世界の日常生活を伝える珍しい紀行番組、24年間も続いた。総製作本数は2400本に上、晩年はドキュメンタリー作品のアーカイブの創設に尽力した。言わばドキュメンタリーの申し子。そのあまりにも大きな足跡は、今改めて見ても輝かしい。

(安永 五郎) ページトップへ

(C)2011 NPO法人映画美学校+牛山純一研究会
   
             
HOME /ご利用に当たって